真之と子規が通っていた共立学校は、現在の小川町駅(都営地下鉄新宿線)の近くにありました。その後、西日暮里に移転し、現在は開成中学・高等学校となっています。

<共立学校の後進である開成高校は西日暮里駅のホームから見える>
ちなみに、子規の死後に律が通った「共立女子職業学校」は、子規と真之が通った「共立学校」とは関係ないようです。共立女子職業学校は現在は共立女子大学となっており、前述の小川町駅の隣、神保町駅(神田の古書店街があるところ)の近くにあります(共立時代の律については、司馬良太郎の「ひとびとの跫音」に詳述されています)。

<律が通った共立女子職業学校(現在の共立女子大学)>
真之と子規が同居した「神田猿楽町五番地」は、神保町駅から徒歩で5、6分ほど北上したところにあります。現在は日大経済学部や神田女学園、教会などが立ち並んでいます。

<真之と子規が同居した猿楽町>
※参考までに、共立学校など当時の予備校を紹介。
○共立学校(現在の開成中学校・高等学校)
1871年に開校。1878年には高橋是清が校長に就任し、大学予備門進学者のための受験予備校として改革。大学予備門の定員約450名に対して、共立からの進学者は50名〜100名を占めた。
卒業生 : 正岡子規、秋山真之、南方熊楠、岡田啓介、山口多聞
○二松学舎(現在の二松學舍大学)
1877年に開かれた漢学私塾。渋沢栄一、金子堅太郎、吉田茂らが舎長を務めた。
卒業生 : 夏目漱石、橘周太、犬養毅、中江兆民
○開成学校(現在の東京大学)
外国の文献を研究する機関であった蕃書調所が後に開成所と改名され、明治維新後に開成学校、さらに大学南校と改称。明治10年に東京医学校と合併し、旧制東京大学となる。
卒業生 : 福島安正、小村寿太郎
○攻玉社(現在の攻玉社中学校・高等学校)
1863年に開かれた鳥羽藩の蘭学塾が前身。1869年、築地の海軍操練所への移転に伴い「攻玉社」と改称。海軍予備科を設置するなど、海軍兵学校への予備校として発展した。現在の制服は海軍の第一種軍服によく似ている。
卒業生 : 広瀬武夫、鈴木貫太郎、山屋他人、財部彪、加藤寛治、百武三郎、山本英輔、
安保清種、村上格一、宇都宮太郎、飯田久恒
○海軍予備学校(海城中学校・高等学校)
1891年に海軍軍人の古賀喜三郎が私財を投じて設立。1900年に海城学校と改称。一時はここの卒業生が海軍兵学校入学者の半数近くを占めるほどであった(・・・が、卒業生の有名人は意外と少なく、野村吉三郎など数人しかいない)。
○成城学校(成城中学校・高等学校)
1885年に軍人志望者を養成する文武講習館として創立され、翌年に成城学校と改称。陸軍士官学校、陸軍幼年学校の予備校として発展した。川上操六や児玉源太郎らが校長を務めた。
卒業生 : 宇垣一成、鈴木孝雄、松井石根、寺内寿一、乃木勝典、乃木保典、小沢治三郎

子規が明治27年から亡くなるまで住んでいたところ。昭和3年に子規庵保存会財団法人が認可され、律がその初代理事長に就任。その後、子規庵は空襲で焼失してしまいますが、昭和25年に寒川鼠骨らによって再建されました。植物の配置までは覚えていませんが、間取りはこのサイトで掲載している「子規庵の図」とほぼ同じです。病間に入ってふと思い出したのが子規のこの一句。
ガラス越に 冬の日あたる 病間哉
この一室で庭の植物を眺めながら句作に打ち込む子規の姿が目に浮かぶような気がしました。「坂の上の雲」の前半部の雰囲気を体感できる場所です。
詳細は子規庵保存会の公式ホームページをご覧ください。

子規のお墓がある大竜寺はJR田端駅から徒歩15分ほどの所にあります。今まで3回行ったのですが、最初は月曜日がお休みとのことで(お寺にも休館日があるんですねぇ)入れず、2回目は水曜日だったのに門が閉まっていて入れませんでした。結局、お墓参りが実現したのは日本海海戦100周年記念式典前日。この日はとても良い天気で、大竜寺近くの田端の坂の上には白い雲がかがやいていました。

好古が受験した陸軍士官学校の作文問題で出された題「飛鳥山ニ遊ブ」の飛鳥山です。徳川吉宗が庶民の花見用に整備した場所で、好古が陸士を受験する数年前に日本最初の公園に指定されています。

現在でも3月下旬〜4月上旬頃には多くの花見客が訪れる桜の名所となっています。ここから2キロほど離れたところにある六義園のしだれ桜もきれいですよ。
余談ですが、陸士で「飛鳥山ニ遊ブ」という題の試験問題が出たという話は、好古の同期生である本郷房太郎の伝記に載っています。

原宿にある、東郷平八郎を祭神とする神社。この神社設立の計画を知った東郷は「わしはまだ生きておる」と激怒して反対したものの、彼の死後に神社設立の要望と献金が相次いだ事もあって、本人の意志に反して神社が建てられたようです。